法要は故人のためというより遺された人のため

楽になる考え
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義母の一周忌の法要が終わりました。こんなに身近な人の死は初めてだったので、これまで法要は故人のためにあると思っていましたが、 むしろ遺された人のためにあるんだなぁと(勝手に)感じました。

命はいつか終わるとわかっていても、日々の生活の中では家族に対してぞんざいな振る舞いをしたり喧嘩したりしています。生まれた瞬間から死に向かってカウントダウンしているのに、いつかくるその日には案外無頓着です。

そしてその日が来たとき、私たちはショックを受け、後悔します。

なんでもっと優しくできなかったのだろうか、なんでもっと一緒に時間を過ごさなかったのだろうか、と。

色々な感情に激しく心を揺さぶられながら一年が過ぎ、一周忌がきます。いやがおうにも、亡くなって一年が過ぎたのだと思い知らされます。

そして、すぐまた三回忌がきます。

こうして法要を経るごとに、それだけの時が過ぎていることを確認していきます。

挨拶でも、故人が亡くなって早◯年と言います。

挨拶しながら、そんなに時が経ったんだ、と刷り込んでいくのです。

儀式は遺された人が死を受け入れるための階段のようなものなのかもしれません。

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