あんなこと言われた。
あんなことされた。
許しがたいことの1つや2つは皆もっているものです。
私も過去に「許せない!」と思ったことがいくつかあります。
それがかつての職場の上司で、もう会うこともない、となればその記憶は薄れていったり、たまに思い出してムカッとすることがあっても、その上司がいない生活をしている限り、やりすごせます。
問題は、相手が家族だった場合です。
家族は仲間、味方、安心できる人のはずなのに、「許しがたいこと」–嘘、裏切り、精神的な暴力など、自分への攻撃を受けた場合、許せないままでいると、ふと思い出しては相手への嫌悪感、諦め、虚無感などに襲われることがあります。
さらに、それが夫だったりするとなおさらそうです。
「幸せにします」と父親に挨拶したくせに、私を幸せにしたのかしら、この人。
自分のことでいっぱいで自己中になって、私の気持ちなんて考えていないんじゃないかしら、この人。
何も波風がたたない日常のときはそこまで苦しくないですが、ケンカや意見の相違などで、その人の「最悪」な面がでたとき、驚き、悲しみ、拒否感などに襲われます。
相談したい、共感してほしい。
そう思ってインターネットで検索しても、なかなか救われません。
同じようにふるまう夫に怒っている妻たちの投稿に大いにうなずきながら、やっぱり自分が正しいんだと思うだけで、心が救われることがないからです。同じ境遇の人がいる、という共感に基づく安心感は得られます。でもそれだけで、解決にはなりません。だからまた同じことをされると怒る。
もうこんな状態は嫌!
じゃあどうするか?
そして検索し始めるのは「夫 許すには」「自分を傷つけた人を許す」などのワードです。
私は幾ページも読みましたが、なかなか「そうはいってもねぇ」と許すことが難しく感じました。
皆さんもそうではないですか?
愛は過去の嫌なことを記録しない(Love is no record of wrongs:聖書の一文です)の言葉に感銘を受け、そうだなぁと納得。
でも目の前で新たに嫌なことをされたら、やっぱりイラっとして傷つきます。
その繰り返しを経験し、色々なサイトを見て「許す」ことについて考えました。
許すと、自分が負けているように感じます。
相手が憎たらしく思えます。だって謝るべきなのは相手なのですから。
だからなかなか許せません。
でも結局許すことでしか心の平和が来ないと結論づけられているものばかりです。
腑に落ちません。。。
腑に落ちないのは、当たり前です。
自分が許したことがないからです。
私はそのことに気が付いたとき、こう思いました。
留学したとき、日本を外側から見ることができました。
それで、「あ、日本ってこんな存在なんだな」とわかったのです。
心も同じではないでしょうか。
「許せない」の国に住んでいると、「許す」ということがどういうことなのかわかりません。
だって「許せない」しか知らないからです。
私は心の留学が必要なのでは、と思い、思い切って許してみることにしました。
プロセスはこうです。
まず、あんな態度や言葉に自分は傷つき、怒ったんだな、と受け止める。
それをした夫に対し「頭にくる!」より「あんなことしか言えないなんて、かわいそうな人」と思う。
他の言い方を知らない。
自分に余裕がなくて優しくなれない。
自分勝手なことに自分で気が付いていない。
自分が言っていることが常識で正しいとしか思っていない。
それってかわいそうな人ではないですか?
だから、かわいそうな人なんだな、と思えるまで心を巡らせます。
そうして、こんなことをイメージします。ここからはサラーっと読まずに1行1行試しながら読んでみてください。
自分たちのやっていることはテレビや映画の撮影現場。
そんなセリフや態度をとっている夫が目の前にいるとして、自分は夫しか見えていません。本気で演技している女優です。
そして、一転。テレビ番組を視聴しているように、二人を見ます。
妻に感情移入するのではなく、客観的に彼を見て、夫側をやさしく見る気持ちで。
彼も何かと戦っているんだな。
妻の知らないところで色々あるんだろう。
だからこんなに一生懸命吠えているのね。。。
そうしたら次は、そんな夫を見ながら、「かわいそうに。早く自分がしていることに気が付きますように」と思います。
もはや「いたわり」の気持ちが芽生えます。
そうして、テレビの前ではなく、自分自身に戻って、「許そう」と決めます。
許しには覚悟が必要です。
自分で何をしているのか早く気づいて成長できるといいね、と彼のために祈り、その場面から退席します。
自分は許したから、あとは神様お願いします、
と私の手に届かないところは自分のために祈ります。
あとは私の責任ではないし、彼の人生の宿題です。
そしてもうあまり深く考えないようにします。
私たちは自分が傷ついて、憤っていることは正当なことだと思いたいので、出来事、相手の態度、自分の気持ちなどを掘り下げて考えて、自分は怒るのは当然だと許可を出したいのです。
でもそれはやめましょう。
怒るのは当然、謝ってもらうのは自分、と思っている限り許せないし、苦しいからです。
その状態って、嫌ですよ。気持ち悪いです。ずっと。
これまでに通らなかったステップを踏んで許してみると、
「許せない」としか思えなかった自分が、客観的に見えるのです。
アメリカから日本を見たように、
許せないの国の自分を、許した国から見られるのです。
これはちょっとしたブレイクスルーでした。
怒りで苦しい人で、許したくないとしがみついてもっと苦しい人は、思い切って許してみてください。
違う景色が見えます。
許してみて初めて、その良さに気が付きます。
許してみて初めて、許さないことの苦しさがわかります。
(番外編のつぶやき)
だって、ケンカはどっちもどっち、ってことばかりですからね。
ここまで私は「自分が正しい。相手が悪い」のスタンスで書いてきましたが、彼からしたら「俺は正しい。相手が悪い」と思っているでしょうからね。
私の悪いところはどこか、って実はわかっています。
素直になれないところです。
私が素直じゃない態度をとると、夫だって素直にふるまえません。
ケンカって、謝った方がすごく強くてデキた人間のように見えるから不思議です。
相手が100%悪いわけではないのに、先に謝る勇気をもっていることに感服するからでしょう。
お互いに謝らないタイプだとこじれますね。
私はひと足お先に、先に「ハイハイ、私が悪かったね」と謝れる人間になりたいです。
思い起こせば、尊敬できる上司や先輩ってすぐ謝っていたなぁ。
そうではないですか?
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